2008年03月03日
酒井忠績が気になる!
姫路城主 酒井忠績(ただしげ)さんの事が気になる方がいらっしゃるようなので.....。
酒井忠績(1827年-1895年):譜代大名 大老・老中経験者
第46代姫路城主・第29代姫路城主(石田説)・姫路酒井家8代姫路藩主・姫路酒井家8代当主
1860年「34歳」で姫路城主に、在位期間7年、隠居で退位
分家の酒井忠誨の長男であったが
本家であり姫路藩主であった酒井忠顕に男子が居なかった為
養子となり姫路酒井家を継ぐ
酒井忠績自身も家督を継ぐ者がいなかった為
弟(四男)の酒井忠惇を養子にして、姫路酒井家を継がせる
1889年3月2日に男爵の位を賜るが、1920年6月15日に爵位を返上
正室は本多助賢(信濃飯山藩の6代藩主で本多家《広孝系》10代当主)の娘
エピソード
『我ら、累世徳川譜代の臣じゃ。徳川と存亡を共にするしかない』
っと言っちゃたもんですから
廃藩置県の時、姫路藩から姫路県になったのはよいのですが、
たった1週間で「飾磨県」になったは、あの一言が明治政府に嫌われた.....
という説があります。(その後、飾磨県は兵庫県に合併されました。)
実際、兄「酒井忠績」の尻拭いの為、家督を継いだ弟の「酒井忠惇」の家老高須隼人らは
姫路藩を守るため
『二心はなく、朝命に従う。寛大な措置、家名存続、人民安堵を要請。
合わせて、15万両の献金申し出。
また、姫路藩の兵を官軍に合流させたい』と言った所
官軍から『軍艦建造費37万5千両』の献金を提案され、
『分割払いで!』っと酒井忠惇は約束をした。
この軍事費ですが、酒井忠惇の後を継いだ酒井忠邦の時代に減額され完納
そして時代は明治へ
酒井忠績(1827年-1895年):譜代大名 大老・老中経験者
第46代姫路城主・第29代姫路城主(石田説)・姫路酒井家8代姫路藩主・姫路酒井家8代当主
1860年「34歳」で姫路城主に、在位期間7年、隠居で退位
分家の酒井忠誨の長男であったが
本家であり姫路藩主であった酒井忠顕に男子が居なかった為
養子となり姫路酒井家を継ぐ
酒井忠績自身も家督を継ぐ者がいなかった為
弟(四男)の酒井忠惇を養子にして、姫路酒井家を継がせる
1889年3月2日に男爵の位を賜るが、1920年6月15日に爵位を返上
正室は本多助賢(信濃飯山藩の6代藩主で本多家《広孝系》10代当主)の娘
エピソード
『我ら、累世徳川譜代の臣じゃ。徳川と存亡を共にするしかない』
っと言っちゃたもんですから
廃藩置県の時、姫路藩から姫路県になったのはよいのですが、
たった1週間で「飾磨県」になったは、あの一言が明治政府に嫌われた.....
という説があります。(その後、飾磨県は兵庫県に合併されました。)
実際、兄「酒井忠績」の尻拭いの為、家督を継いだ弟の「酒井忠惇」の家老高須隼人らは
姫路藩を守るため
『二心はなく、朝命に従う。寛大な措置、家名存続、人民安堵を要請。
合わせて、15万両の献金申し出。
また、姫路藩の兵を官軍に合流させたい』と言った所
官軍から『軍艦建造費37万5千両』の献金を提案され、
『分割払いで!』っと酒井忠惇は約束をした。
この軍事費ですが、酒井忠惇の後を継いだ酒井忠邦の時代に減額され完納
そして時代は明治へ
Posted by もこ at 15:44│Comments(0)
│城主
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。