2007年07月10日
【姫路城城主 一覧】
城主・生没年・城主(領主・藩主)になった年/年齢・備考
赤松則村(のりむら)1277-1350 1333(元弘03年)56歳(法号 円心)
赤松貞範(さだのり)1306-1374 1346(正平元年)40歳(則村次男)
小寺頼季(よりすえ)0000-1352 1349(正平04年)??歳(赤松家臣)
小寺景治(かげはる)0000-1358 1352(正平07年)??歳(頼季次男/赤松家臣)
小寺景重(かげしげ)0000-1403 1358(延文03年)??歳(景治長男/赤松家臣)
小寺職治(もとはる)0000-1441 1403(応永10年)??歳(景重長男/赤松家臣)
----嘉吉の乱で赤松氏滅亡 赤松氏、姫路城を明渡す-----
山名持豊(もちとよ)1404-1473 1441(嘉吉元年)37歳
----赤松氏の遺臣が後南朝から神爾を奪回した功績により政則の家督相続が許さる----
赤松政則(まさのり)1455-1496 1467年(応仁元年)12歳
小寺豊職(とよもと)0000-1491 1470年(文明02年)??歳(赤松家臣)
小寺政隆(まさたか)1472-1530 1491年(延徳03年)19歳(豊職長男/赤松家臣)
小寺則職(のりもと)1495-1576 1519年(永正16年)24歳(政隆長男)
八代道慶(どうけい)0000-0000 1532年(享禄04年)??歳(小寺家老)
黒田重隆(しげたか)1508-1564 1545年(天文14年)37歳(小寺家臣)
黒田職隆(もとたか)1522-1585 1564年(永禄07年)42歳(黒田重隆の子)
黒田孝高(よしたか)1546-1604 1567年(永禄10年)21歳(職隆の子/キリシタン大名)
----黒田孝高、羽柴秀吉に姫路城を譲る-----
羽柴秀吉(ひでよし)1537-1598 1580年(天正08年)43歳(後の豊臣秀吉)
羽柴秀長(ひでなが)1540-1591 1583年(天正11年)43歳(羽柴秀吉の異父弟)
木下家定(いえさだ)1543-1608 1585年(天正13年)42歳(秀吉正室の兄)
----徳川家康が征夷大将軍に任官 徳川幕府のはじまり(1603)-----
----木下家定、徳川家康により転封-----
池田輝政(てるまさ)1564-1613 1600年(慶長05年)37歳(継室:徳川家康次女 督姫)
池田利隆(としたか)1584-1616 1613年(慶長18年)30歳(池田輝政長男)
池田光政(みつまさ)1609-1682 1616年(元和02年)08歳(池田利隆長男)
----池田光政、幼少の為転封-----
本多忠政(ただまさ)1575-1631 1617年(元和03年)43歳(父:忠勝は徳川家康重臣)
本多政朝(まさとも)1599-1638 1631年(寛永08年)32歳(本多忠政次男)
本多政勝(まさかつ)1614-1671 1638年(寛永15年)25歳(祖父:本多忠勝)
----本多政勝、本家の家督を継ぐ為転封-----
松平忠明(ただあき)1583-1644 1639年(寛永16年)57歳(母:徳川家康養子 亀姫)
松平忠弘(ただひろ)1634-1700 1644年(正保元年)14歳(松平忠明長男)
松平直基(なおもと)1604-1648 1648年(慶安元年)45歳(祖父:徳川家康)
松平直矩(なおのり)1642-1695 1648年(慶安元年)07歳(松平直基長男)
----松平直矩、幼少の為転封-----
榊原忠次(ただつぐ)1605-1665 1649年(慶安02年)45歳(祖父:徳川四天王榊原康政)
榊原政房(まさふさ)1641-1667 1665年(寛文05年)25歳(榊原忠次二男)
榊原政倫(まさみち)1665-1687 1667年(寛文05年)03歳(榊原政房長男)
----榊原政倫、幼少の為転封 ※幼少の為、姫路城主にはなっておりません-----
松平直矩(なおのり)1642-1695 1667年(寛文07年)26歳(姫路に復帰)
----松平直矩、親戚の越後高田藩の御家騒動により転封-----
本多忠国(ただくに)1666-1704 1682年(天和02年)17歳(祖父:本多忠政)
本多忠孝(ただたか)1698-1709 1704年(宝永元年)07歳(本多忠国三男)
----本多忠孝、幼少の為転封-----
榊原政邦(まさくに)1675-1726 1704年(宝永元年)30歳(養父:榊原政倫)
榊原政祐(まさすけ)1705-1732 1726年(享保11年)22歳(榊原政邦次男)
榊原政岑(まさみね)1713-1742 1732年(享保17年)18歳(養父:榊原政祐)
榊原政永(まさなが)1735-1808 1741年(寛保元年)07歳(榊原政岑長男)
----榊原政永、父榊原政岑の不行跡の為転封-----
松平明矩(あきのり)1713-1743 1741年(寛保元年)29歳(養父:松平直矩)
松平朝矩(とものり)1738-1768 1748年(寛延元年)11歳(明矩長男)
----松平朝矩、幼少の為転封-----
酒井忠恭(ただずみ)1710-1772 1749年(寛延02年)40歳(正室:榊原政邦次女)
酒井忠以(ただざね)1756-1790 1772年(安永元年)18歳(養父:忠恭 父:忠恭)
酒井忠道(ただひろ)1777-1837 1790年(寛政02年)14歳(酒井忠以長男)
酒井忠実(ただみつ)1779-1848 1814年(文化11年)36歳(養父:忠道 父:忠以)
酒井忠学(ただのり)1809-1844 1835年(天保06年)28歳(養父:忠実 父:忠道)
酒井忠宝(ただとみ)1829-1853 1844年(弘化元年)16歳(養父:忠学 妻:忠学娘)
酒井忠顕(ただてる)1836-1860 1853年(嘉永06年)18歳(養父:忠宝 妻:忠宝娘)
酒井忠績(ただしげ)1827-1895 1860年(万延元年)34歳(養父:忠顕 父:酒井忠誨*)
酒井忠惇(ただとし)1839-1907 1867年(慶応03年)29歳(養父:忠績 父:酒井忠誨*)
酒井忠邦(ただくに)1854-1879 1868年(明治元年)15歳(高祖父:忠恭 妻:忠顕娘)
----版籍奉還(1869年7月25日)-----
----酒井忠績/忠惇/忠邦 大名華族に----
酒井忠邦 藩知事となり、廃藩置県(1871年7月14日)で免官。
華族令が制定され、爵位が与えられる。(1884年制定)
大名家であった播磨国姫路藩酒井家は伯爵が与えられた
おまけ 家系図で見る《姫路城主と徳川将軍家》 続きを読む
赤松則村(のりむら)1277-1350 1333(元弘03年)56歳(法号 円心)
赤松貞範(さだのり)1306-1374 1346(正平元年)40歳(則村次男)
小寺頼季(よりすえ)0000-1352 1349(正平04年)??歳(赤松家臣)
小寺景治(かげはる)0000-1358 1352(正平07年)??歳(頼季次男/赤松家臣)
小寺景重(かげしげ)0000-1403 1358(延文03年)??歳(景治長男/赤松家臣)
小寺職治(もとはる)0000-1441 1403(応永10年)??歳(景重長男/赤松家臣)
----嘉吉の乱で赤松氏滅亡 赤松氏、姫路城を明渡す-----
山名持豊(もちとよ)1404-1473 1441(嘉吉元年)37歳
----赤松氏の遺臣が後南朝から神爾を奪回した功績により政則の家督相続が許さる----
赤松政則(まさのり)1455-1496 1467年(応仁元年)12歳
小寺豊職(とよもと)0000-1491 1470年(文明02年)??歳(赤松家臣)
小寺政隆(まさたか)1472-1530 1491年(延徳03年)19歳(豊職長男/赤松家臣)
小寺則職(のりもと)1495-1576 1519年(永正16年)24歳(政隆長男)
八代道慶(どうけい)0000-0000 1532年(享禄04年)??歳(小寺家老)
黒田重隆(しげたか)1508-1564 1545年(天文14年)37歳(小寺家臣)
黒田職隆(もとたか)1522-1585 1564年(永禄07年)42歳(黒田重隆の子)
黒田孝高(よしたか)1546-1604 1567年(永禄10年)21歳(職隆の子/キリシタン大名)
----黒田孝高、羽柴秀吉に姫路城を譲る-----
羽柴秀吉(ひでよし)1537-1598 1580年(天正08年)43歳(後の豊臣秀吉)
羽柴秀長(ひでなが)1540-1591 1583年(天正11年)43歳(羽柴秀吉の異父弟)
木下家定(いえさだ)1543-1608 1585年(天正13年)42歳(秀吉正室の兄)
----徳川家康が征夷大将軍に任官 徳川幕府のはじまり(1603)-----
----木下家定、徳川家康により転封-----
池田輝政(てるまさ)1564-1613 1600年(慶長05年)37歳(継室:徳川家康次女 督姫)
池田利隆(としたか)1584-1616 1613年(慶長18年)30歳(池田輝政長男)
池田光政(みつまさ)1609-1682 1616年(元和02年)08歳(池田利隆長男)
----池田光政、幼少の為転封-----
本多忠政(ただまさ)1575-1631 1617年(元和03年)43歳(父:忠勝は徳川家康重臣)
本多政朝(まさとも)1599-1638 1631年(寛永08年)32歳(本多忠政次男)
本多政勝(まさかつ)1614-1671 1638年(寛永15年)25歳(祖父:本多忠勝)
----本多政勝、本家の家督を継ぐ為転封-----
松平忠明(ただあき)1583-1644 1639年(寛永16年)57歳(母:徳川家康養子 亀姫)
松平忠弘(ただひろ)1634-1700 1644年(正保元年)14歳(松平忠明長男)
松平直基(なおもと)1604-1648 1648年(慶安元年)45歳(祖父:徳川家康)
松平直矩(なおのり)1642-1695 1648年(慶安元年)07歳(松平直基長男)
----松平直矩、幼少の為転封-----
榊原忠次(ただつぐ)1605-1665 1649年(慶安02年)45歳(祖父:徳川四天王榊原康政)
榊原政房(まさふさ)1641-1667 1665年(寛文05年)25歳(榊原忠次二男)
榊原政倫(まさみち)1665-1687 1667年(寛文05年)03歳(榊原政房長男)
----榊原政倫、幼少の為転封 ※幼少の為、姫路城主にはなっておりません-----
松平直矩(なおのり)1642-1695 1667年(寛文07年)26歳(姫路に復帰)
----松平直矩、親戚の越後高田藩の御家騒動により転封-----
本多忠国(ただくに)1666-1704 1682年(天和02年)17歳(祖父:本多忠政)
本多忠孝(ただたか)1698-1709 1704年(宝永元年)07歳(本多忠国三男)
----本多忠孝、幼少の為転封-----
榊原政邦(まさくに)1675-1726 1704年(宝永元年)30歳(養父:榊原政倫)
榊原政祐(まさすけ)1705-1732 1726年(享保11年)22歳(榊原政邦次男)
榊原政岑(まさみね)1713-1742 1732年(享保17年)18歳(養父:榊原政祐)
榊原政永(まさなが)1735-1808 1741年(寛保元年)07歳(榊原政岑長男)
----榊原政永、父榊原政岑の不行跡の為転封-----
松平明矩(あきのり)1713-1743 1741年(寛保元年)29歳(養父:松平直矩)
松平朝矩(とものり)1738-1768 1748年(寛延元年)11歳(明矩長男)
----松平朝矩、幼少の為転封-----
酒井忠恭(ただずみ)1710-1772 1749年(寛延02年)40歳(正室:榊原政邦次女)
酒井忠以(ただざね)1756-1790 1772年(安永元年)18歳(養父:忠恭 父:忠恭)
酒井忠道(ただひろ)1777-1837 1790年(寛政02年)14歳(酒井忠以長男)
酒井忠実(ただみつ)1779-1848 1814年(文化11年)36歳(養父:忠道 父:忠以)
酒井忠学(ただのり)1809-1844 1835年(天保06年)28歳(養父:忠実 父:忠道)
酒井忠宝(ただとみ)1829-1853 1844年(弘化元年)16歳(養父:忠学 妻:忠学娘)
酒井忠顕(ただてる)1836-1860 1853年(嘉永06年)18歳(養父:忠宝 妻:忠宝娘)
酒井忠績(ただしげ)1827-1895 1860年(万延元年)34歳(養父:忠顕 父:酒井忠誨*)
酒井忠惇(ただとし)1839-1907 1867年(慶応03年)29歳(養父:忠績 父:酒井忠誨*)
酒井忠邦(ただくに)1854-1879 1868年(明治元年)15歳(高祖父:忠恭 妻:忠顕娘)
----版籍奉還(1869年7月25日)-----
----酒井忠績/忠惇/忠邦 大名華族に----
酒井忠邦 藩知事となり、廃藩置県(1871年7月14日)で免官。
華族令が制定され、爵位が与えられる。(1884年制定)
大名家であった播磨国姫路藩酒井家は伯爵が与えられた

2008年03月03日
酒井忠績が気になる!
姫路城主 酒井忠績(ただしげ)さんの事が気になる方がいらっしゃるようなので.....。
酒井忠績(1827年-1895年):譜代大名 大老・老中経験者
第46代姫路城主・第29代姫路城主(石田説)・姫路酒井家8代姫路藩主・姫路酒井家8代当主
1860年「34歳」で姫路城主に、在位期間7年、隠居で退位
分家の酒井忠誨の長男であったが
本家であり姫路藩主であった酒井忠顕に男子が居なかった為
養子となり姫路酒井家を継ぐ
酒井忠績自身も家督を継ぐ者がいなかった為
弟(四男)の酒井忠惇を養子にして、姫路酒井家を継がせる
1889年3月2日に男爵の位を賜るが、1920年6月15日に爵位を返上
正室は本多助賢(信濃飯山藩の6代藩主で本多家《広孝系》10代当主)の娘
エピソード
『我ら、累世徳川譜代の臣じゃ。徳川と存亡を共にするしかない』
っと言っちゃたもんですから
廃藩置県の時、姫路藩から姫路県になったのはよいのですが、
たった1週間で「飾磨県」になったは、あの一言が明治政府に嫌われた.....
という説があります。(その後、飾磨県は兵庫県に合併されました。)
実際、兄「酒井忠績」の尻拭いの為、家督を継いだ弟の「酒井忠惇」の家老高須隼人らは
姫路藩を守るため
『二心はなく、朝命に従う。寛大な措置、家名存続、人民安堵を要請。
合わせて、15万両の献金申し出。
また、姫路藩の兵を官軍に合流させたい』と言った所
官軍から『軍艦建造費37万5千両』の献金を提案され、
『分割払いで!』っと酒井忠惇は約束をした。
この軍事費ですが、酒井忠惇の後を継いだ酒井忠邦の時代に減額され完納
そして時代は明治へ 続きを読む
酒井忠績(1827年-1895年):譜代大名 大老・老中経験者
第46代姫路城主・第29代姫路城主(石田説)・姫路酒井家8代姫路藩主・姫路酒井家8代当主
1860年「34歳」で姫路城主に、在位期間7年、隠居で退位
分家の酒井忠誨の長男であったが
本家であり姫路藩主であった酒井忠顕に男子が居なかった為
養子となり姫路酒井家を継ぐ
酒井忠績自身も家督を継ぐ者がいなかった為
弟(四男)の酒井忠惇を養子にして、姫路酒井家を継がせる
1889年3月2日に男爵の位を賜るが、1920年6月15日に爵位を返上
正室は本多助賢(信濃飯山藩の6代藩主で本多家《広孝系》10代当主)の娘
エピソード
『我ら、累世徳川譜代の臣じゃ。徳川と存亡を共にするしかない』
っと言っちゃたもんですから
廃藩置県の時、姫路藩から姫路県になったのはよいのですが、
たった1週間で「飾磨県」になったは、あの一言が明治政府に嫌われた.....
という説があります。(その後、飾磨県は兵庫県に合併されました。)
実際、兄「酒井忠績」の尻拭いの為、家督を継いだ弟の「酒井忠惇」の家老高須隼人らは
姫路藩を守るため
『二心はなく、朝命に従う。寛大な措置、家名存続、人民安堵を要請。
合わせて、15万両の献金申し出。
また、姫路藩の兵を官軍に合流させたい』と言った所
官軍から『軍艦建造費37万5千両』の献金を提案され、
『分割払いで!』っと酒井忠惇は約束をした。
この軍事費ですが、酒井忠惇の後を継いだ酒井忠邦の時代に減額され完納
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タグ :気になる!シリーズ
2008年03月19日
黒田孝高
黒田孝高(1546年-1604年):小寺家臣 キリシタン大名 洗礼名「ドン・シメオン」
第14代姫路城主
1567年姫路城主に、在位期間約3年
通称名「官兵衛」
黒田職隆の子
エピソード
姫路城で生まれた唯一の姫路城主
その為か、姫路市民は親しみを込めて「官兵衛さん」と呼ぶ事が多い
「黒田節(黒田武士)」(♪酒は飲め飲め、飲むならば♪)
で名高い 母里太兵衛は(民謡「黒田節」のモデルと言われている)
黒田官兵衛と子の黒田長政の家臣 黒田24騎の一人 続きを読む
第14代姫路城主
1567年姫路城主に、在位期間約3年
通称名「官兵衛」
黒田職隆の子
エピソード
姫路城で生まれた唯一の姫路城主
その為か、姫路市民は親しみを込めて「官兵衛さん」と呼ぶ事が多い
「黒田節(黒田武士)」(♪酒は飲め飲め、飲むならば♪)
で名高い 母里太兵衛は(民謡「黒田節」のモデルと言われている)
黒田官兵衛と子の黒田長政の家臣 黒田24騎の一人 続きを読む
2008年03月19日
池田輝政
池田三左衛門輝政(1565年-1613年):外様大名
第18代姫路城主・初代姫路城主(石田説)・池田氏初代姫路藩主
1600年「37歳」で姫路城主に、在位期間13年、姫路で急死 退位
姫路藩姫路城主 在位期間ベスト10 第10位
茨城城主中川清秀の女子 糸姫と結婚をするが利隆が生まれた後に離縁
徳川家康の次女「督姫[継室]」と婚姻、忠継・忠雄・輝澄・政綱・輝興・振姫が生まれる
(先妻や側室の子を含め11男3女の子だくさん)
エピソード
身長は5尺2~3寸(155~158cm)と小柄
妖怪に悩まされていた
三左衛門掘の築造を行うも、途中で失敗する
エピソード2
池田氏が繁栄したのは「督姫」のお陰と言われております。
『パパ!孫が可愛くないの?』っと「督姫」父親の「家康」に言ってみる
1603年 忠継 備前 28万6,200石
1610年 忠雄 淡路 6万3,620石
1613年 輝政没
『パパ!輝政さんが.....私はこの先.....』っと「督姫」、「家康」に言ってみる
1613年 利隆 播磨 42万石
1613年 忠継 備前 28万6,200石+良正院(督姫)化粧料10万石
『パパ!孫達の事を.....』っと「督姫」常日頃から「家康」に言っていたようで......
1615年 良正院(督姫)没 忠継没
忠雄 備前 28万6,200石
輝澄 宍粟
政綱 赤穂
輝興 佐用
っと.....池田氏は合計100万石を手に入れたのでした。
娘の「振姫」は第二代将軍「徳川秀忠」の養女へ後「伊達忠宗」の正室に 続きを読む
第18代姫路城主・初代姫路城主(石田説)・池田氏初代姫路藩主
1600年「37歳」で姫路城主に、在位期間13年、姫路で急死 退位
姫路藩姫路城主 在位期間ベスト10 第10位
茨城城主中川清秀の女子 糸姫と結婚をするが利隆が生まれた後に離縁
徳川家康の次女「督姫[継室]」と婚姻、忠継・忠雄・輝澄・政綱・輝興・振姫が生まれる
(先妻や側室の子を含め11男3女の子だくさん)
エピソード
身長は5尺2~3寸(155~158cm)と小柄
妖怪に悩まされていた
三左衛門掘の築造を行うも、途中で失敗する
エピソード2
池田氏が繁栄したのは「督姫」のお陰と言われております。
『パパ!孫が可愛くないの?』っと「督姫」父親の「家康」に言ってみる
1603年 忠継 備前 28万6,200石
1610年 忠雄 淡路 6万3,620石
1613年 輝政没
『パパ!輝政さんが.....私はこの先.....』っと「督姫」、「家康」に言ってみる
1613年 利隆 播磨 42万石
1613年 忠継 備前 28万6,200石+良正院(督姫)化粧料10万石
『パパ!孫達の事を.....』っと「督姫」常日頃から「家康」に言っていたようで......
1615年 良正院(督姫)没 忠継没
忠雄 備前 28万6,200石
輝澄 宍粟
政綱 赤穂
輝興 佐用
っと.....池田氏は合計100万石を手に入れたのでした。
娘の「振姫」は第二代将軍「徳川秀忠」の養女へ後「伊達忠宗」の正室に 続きを読む
2008年03月25日
榊原政岑
榊原政岑(1713年-1743年):譜代大名
第35代姫路城主・第18代姫路城主(石田説)・第2次榊原家3代姫路藩主・榊原家8代当主
1732年「18歳」で姫路城主に、在位期間9年、謹慎・蟄居で退位
傍系の榊原勝治(榊原政邦の弟)の次男であったが
家督を継ぐため、実兄の榊原勝久死後、兄「勝久」の養子になり傍系を継ぐ
その後、本家である「榊原政祐」に子が無い為(独身)
第2次榊原家2代藩主「榊原政祐」の養子となり榊原家を継ぐ
「生野一揆の鎮圧を支援」
エピソード
江戸新吉原の遊女高尾に入れあげる
寛保元年(1741年)06月 高尾を身請け「身代金2,500両 総経費3,000両」
就封に際し、高尾を連れ、姫路城西屋敷に住まわす
(1両=10万円 現在のお金に換算すると約3億円)
寛保元年(1741年)10月 政岑不行跡のため、隠居謹慎を命じられる
また、子、政永に家督を与え、所替えを命ぜられる
後、政岑と共に越後高田へ
移封される前に、姫路の思い出にと、祭事を行ったのが始まりと伝えられているのが
「ゆかたまつり」
エピソード2
そりゃ...お姉ちゃんに3億使ったらねぇ、飛ばされます(笑)
でもね♪ 榊原政岑さんってお姉ちゃんに使ったお金は3億だけでは無いのです。
姫路に来る時に「高尾太夫」さんの他にも
立寄先の、京都と有馬で数名を身請けし、姫路に来ました
正室は怒らなかったのかって?産後の肥立ちが悪く、他界され......
そのショックから、お姉ちゃん遊びをするように、なったそうです。
一説によると
「榊原政岑」の後、姫路藩主になった「榊原政永(1735年-1808年)」ですが
「政岑」が京都の芸子か舞妓か遊女に生ませた子 って説があります。
エピソード3
転封先の越後高田では、子の榊原政永と共に藩を再建
越後高田では、大変評判が良い 続きを読む
第35代姫路城主・第18代姫路城主(石田説)・第2次榊原家3代姫路藩主・榊原家8代当主
1732年「18歳」で姫路城主に、在位期間9年、謹慎・蟄居で退位
傍系の榊原勝治(榊原政邦の弟)の次男であったが
家督を継ぐため、実兄の榊原勝久死後、兄「勝久」の養子になり傍系を継ぐ
その後、本家である「榊原政祐」に子が無い為(独身)
第2次榊原家2代藩主「榊原政祐」の養子となり榊原家を継ぐ
「生野一揆の鎮圧を支援」
エピソード
江戸新吉原の遊女高尾に入れあげる
寛保元年(1741年)06月 高尾を身請け「身代金2,500両 総経費3,000両」
就封に際し、高尾を連れ、姫路城西屋敷に住まわす
(1両=10万円 現在のお金に換算すると約3億円)
寛保元年(1741年)10月 政岑不行跡のため、隠居謹慎を命じられる
また、子、政永に家督を与え、所替えを命ぜられる
後、政岑と共に越後高田へ
移封される前に、姫路の思い出にと、祭事を行ったのが始まりと伝えられているのが
「ゆかたまつり」
エピソード2
そりゃ...お姉ちゃんに3億使ったらねぇ、飛ばされます(笑)
でもね♪ 榊原政岑さんってお姉ちゃんに使ったお金は3億だけでは無いのです。
姫路に来る時に「高尾太夫」さんの他にも
立寄先の、京都と有馬で数名を身請けし、姫路に来ました

正室は怒らなかったのかって?産後の肥立ちが悪く、他界され......
そのショックから、お姉ちゃん遊びをするように、なったそうです。
一説によると
「榊原政岑」の後、姫路藩主になった「榊原政永(1735年-1808年)」ですが
「政岑」が京都の芸子か舞妓か遊女に生ませた子 って説があります。
エピソード3
転封先の越後高田では、子の榊原政永と共に藩を再建
越後高田では、大変評判が良い 続きを読む
2008年07月24日
姫路城主と徳川将軍家
黒田孝高(1546-1604)
羽柴氏の時代(1580-1600)
池田輝政(1565-1613)/利隆(1584-1616)/光政(1609-1682)
本多忠政(1575-1631)/政朝(1599-1638)/政勝(1614-1671)
※本多忠政の娘 栄寿院(国姫)と円照院(亀姫)は徳川家康の養女に
松平忠明(1583-1644)/忠弘(1634-1700)
松平直基(1604-1648)/直矩(1642-1695)
明矩(1713-1743)/朝矩(1738-1768)
榊原忠次(1605-1665)/政房(1641-1667)/政倫(1665-1687)
政邦(1675-1726)/政祐(1705-1732)/政岑(1713-1742)/政永(1735-1808)
※榊原康政は徳川四天王
榊原政倫は幼少の為、城主にカウントされない
本多忠国(1666-1704)/忠孝(1698-1709)
酒井忠学(1809-1844)
最後の姫路城主だった酒井氏は代々、徳川将軍家の家臣でしたが
徳川の血を引く近親者にはいませんでした。
訂正しました! 11代将軍徳川家斉の25女「喜代姫」さんの事を忘れておりました
伊勢屋本店「玉椿」は、忠学と喜代姫との婚礼で考案された、お菓子なのに....(^^; 続きを読む
徳川家康 ┋ | |||
(養女)┋ | ![]() (1567-1580) | = ┃ | 照福院[正室] |
大凉院 [継室] | = | 黒田長政 (1568-1623) |
羽柴氏の時代(1580-1600)
池田輝政(1565-1613)/利隆(1584-1616)/光政(1609-1682)
徳川家康 | = ┃ | 西郷局[側室] (お愛の方) | |
督姫[継室] (1565-1615) | = | ![]() (1600-1613) | |
┃![]() (1613-1616) | |||
┃![]() (1616-1617) |
本多忠政(1575-1631)/政朝(1599-1638)/政勝(1614-1671)
徳川家康 ┃ | = | = | = ┃ | = | 築山殿[正室] (瀬名姫) | |
徳川秀忠 | =崇源院 ┃[継室] | 松平信康 ┃ | ┏ーーーーーーーーー┓ | |||
┃ | 熊姫 [正室] | = ┃ | ![]() (1617-1631) | 本多忠朝 ┃ | ||
┃ | ┣ーーーーーーーーー┓ | ┃ | ||||
千姫[正室] (1597-1666) | = | = | 本多忠刻 (1596-1626) | ![]() (1631-1638) | ┃ ┃ | |
┣┉┉┉┐養子 ┃ | ||||||
本多政長 ┃ | ![]() (1638-1639) | |||||
[A] 31.本多忠国を養子に |
※本多忠政の娘 栄寿院(国姫)と円照院(亀姫)は徳川家康の養女に
松平忠明(1583-1644)/忠弘(1634-1700)
徳川家康 ┋ | = ┃ | 築山殿[正室] (瀬名姫) | |
┋ | 盛徳院[正室] (1560-1625) | = ┃ | 奥平信昌 (1555-1615) |
└ | ┉┉┉ (家康養子に) | ![]() (1639-1644) | |
┃![]() (1644-1648) |
松平直基(1604-1648)/直矩(1642-1695)
明矩(1713-1743)/朝矩(1738-1768)
徳川家康 | = ┃ | 小督局[側室] (長勝院) | |
結城秀康 (1574-1607) | = ┃ | 品量院 [側室] | |
![]() (1648-1648) | |||
┃![]() (1648-1649) (1667-1682) | |||
┣ーーーーーーーーーー┓ | |||
松平基知 | 松平知清 | ||
└┉┉┉┉ (養子) | ┃![]() (1741-1748) | ||
┃![]() (1748-1749) |
榊原忠次(1605-1665)/政房(1641-1667)/政倫(1665-1687)
政邦(1675-1726)/政祐(1705-1732)/政岑(1713-1742)/政永(1735-1808)
松 平= 広┃ 忠┃ | 伝 通 院 | = ┃ ┃ | 久 松 俊 勝 | ||||
┃ 徳 川 家 康 | ┃ 松 平 康 元 | = ┃ ┃ | 女子[室] | 榊原康政 | |||
┃ | ┣ーーーーーー┓ | ||||||
女子 [正室] | = ┃ | 大須賀 忠政 | 榊原康勝 ┃ | ||||
![]() (1649-1665) | 榊原勝政 ┃ | ||||||
┃![]() (1665-1667) | ┃ 榊原勝直 ┃ | ||||||
┃ | ┣ーーーーーーーー┓ | ||||||
┃![]() (1667-1667) | ┃ ┃ ┃ | ┃ ┃ ┃ | |||||
└┉┉ | ┉┉┉┉ (養子) | ┃![]() (1704-1726) | ┃ 榊原勝治 ┃ | ||||
┃![]() (1726-1732) | ┃ ┃ ┃ | ||||||
└┉┉ (養子) | ┃![]() (1732-1741) | ||||||
┃![]() (1741-1741) |
※榊原康政は徳川四天王
榊原政倫は幼少の為、城主にカウントされない
本多忠国(1666-1704)/忠孝(1698-1709)
徳川家康 | = ┃ | 養珠院 [側室] | |||
徳川頼房 | = ┃ | 佐々木氏 [側室] | |||
松平頼元 | = ┃ | 嘉禰 [正室] | |||
[A]┉┉┉ (本多政長養子に) | ![]() (1682-1704) | ||||
┃![]() (1704-1704) |
酒井忠学(1809-1844)
徳川家康 | |||||
┃ | |||||
徳川家斉 (11代将軍) | = ┃ | 皆春院 [側室] | |||
喜代姫[正室] (1818-1868) | = | ![]() (1835-1844) |
訂正しました! 11代将軍徳川家斉の25女「喜代姫」さんの事を忘れておりました
伊勢屋本店「玉椿」は、忠学と喜代姫との婚礼で考案された、お菓子なのに....(^^; 続きを読む